コロナの影響下にある教会のための聖書神学
マイケル・ゴーマン
聖マリア大学神学部教授
(米国メリーランド州、ボルチモア)
全体を統括する原則
1 コロナの影響は何ヶ月と言わず、何年も、幾波にもわたって、留まり続けるであろう。
2 教会は、「捕囚」の中に置かれている。それは完全にとは言えないし、どこでも同じとも言えないが、それでも教会が捕囚の時代を迎えているのは事実である。
3 この時は、教会について「完全に考え直さねばならない」時ではない。(あたかもこれまでの教会はもはや可能性がなくなったかのように)また神学的欠陥を持った提案をするときでもない(集まって礼拝することなどそもそも必要がなかったのではないかとか)むしろ、いま必要な合言葉は「創造的忠実さ」である。
4 同時に、今の時は、緊張の中から新たなものが生み出されるときである。恐らくは、以下の聖書が与えるいくつかの視点を通して。
- 「わたしたちの主なる神を愛し、わたしたちの隣人をわたしたち自身のように愛そう」
(申命記6:5、レビ記19:18、マルコ12:28~31)
この二つの戒めが重要であり続ける。その表れは新しい形をとるだろう。
- 「わたしたちの集会を怠らずに、ますます励ましあおう」(ヘブル10:25)
集まることはキリスト者にとっていくつかある選択肢の一つではなく、必要不可欠なことである。わたしたちは創造的な仕方で集まらねばならない。もう一度、信仰の受肉的性格を十分に表現することができるときまで、わたしたちは引き続き、礼拝、学び、牧会、伝道のための創造的方法を発見してゆく必要がある。わたしたちはいつも覚えているべきである。主イエスはわたしたちがたった二人、または三人集まるところにもおられることを。
- 「わたしたちは気をつけて、正当なあるいは誤った権利の主張によって、キリストがその兄弟のために死なれた、兄弟たちを傷つけないようにしよう」(1コリント8)
今は、キリスト者や教会が憲法上のあるいはその他の権利に基づき、身体的にこれまで通りに、いかなる犠牲を払っても集まるべきだと主張するときではない。用心深さ、わきまえ、創造性こそ隣人愛のしるしである。
- 「わたしたちは言葉とわざで福音をのべ伝えよう。なぜならわたしたちの間で働いておられるのは神であられるからだ」(フィリピ1:27~2:16)
今は、わたしたちの苦境について不平を言ったり、呟いたりしないで、良い証人たちとして、福音をのべ伝えるべき時である。
- 「わたしたちが捕囚となっている町の平安を祈ろう」(エレミヤ29)
今は、教会がおかれている捕囚の中で、遣わされている使命を創造的に果たすことを考えるべき時である。それは政府や文化がわたしたちに要請するからでなく、神がご自分の民に期待されるからである。
- 「わたしたちは泣くものとともに泣こう」(詩編、ローマ12:15)
多くの人々が多くのものを失っている今こそ、悲しみ嘆くべき時である。わたしたち自身失ったものがあり(一緒に集まって捧げる礼拝)さらに、仕事、愛する人々を失って泣いている人々があり、他者のために多くの犠牲を払った人々、それにより情緒的にも肉体的にも消耗しきった人々、今とこれからの生活や命に不安を抱えている人々のために嘆き悲しむべきである。
- 「わたしたちは互いに重荷を負いあってキリストの律法を全うしよう」(ガラテヤ6:2)
今は、キリストの教会と、その外にいる人々の困窮を知って、それに応える働きをすべき時である。それには経済的、霊的、感情的その他の困窮が含まれる。
- 「わたしたちは貧しい人々のことを覚えよう」(ガラテヤ2:10)
今は最も小さくされている人々に注意を向けるべき時である。広い意味での貧しい人々、身近な、また世界中の人々を。
- 「わたしたちは聖霊の果実、特に忍耐を身につけよう」(ガラテヤ5:22~23)
今は聖霊がわたしたちの中に、またわたしたちの間に働いて結ばせてくださる実が、あらゆる次元にもたらされるべき時である。その中で最も重要なのは忍耐である。
- 「わたしたちは信仰と希望と愛を身につけよう」(1コリント13:13)
この三つの徳はどんな時にも実践すべきものであるが、今は特別な形と意味を持つだろう。
- 「わたしたちは謙遜を身に着けよう」(コロサイ3:12、1ペトロ5:5)
今は謙遜を必要とする時である。なぜならわたしたちは未知の領域に絶えず踏み込んでゆかなければならないからだ。それゆえ、わたしたちは皆、間違いをおかすだろう。わたしたちは自分の不十分さを認識し、自分自身と他者に特別な恵みを求めなければならないが、そうだからこそ、反対に、謙虚になって自分のなすことについて、互いに、主の前に申し開きをしなければならない。神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みを与えられる。